蒼淵の刻印 忘れ去られた世界で
あなたは覚えのない場所で目を覚ます。
昨日を持たない世界で確かなのは、世界の中心の傷跡。
記憶からこぼれ落ちて
なぜそこにいるのかはわからない。
どうやってそこまで来たのかも思い出せない。
空は妙な光を帯びて震えていて、雨はまだ降っていないのに、空気は濡れているようだった。
あなたは歩く。
森を抜け、川を渡り、丘の上へと上がる。
山の稜線は美しく、空は抜けるように青い。
夜の帳が降りる頃、あなたは草の上で横たわる。
草の匂い。
夜の音。
それは、あなたの記憶と一緒のものだった。
訪れる深淵。
明けの明星。
世界は変わっていた。
昨日見た山の尾根は別の形になり、谷は違う場所へ移り、歩いたはずの道もない。
あなたはまた、知らない場所に立っている。
昨日が消えた。
この世界では、同じ朝が二度とこないのだ。
大地は眠っているあいだに姿を変え、森は場所をずらし、川は昨日とは違う方向へ流れる。
まるで世界全体が、毎晩ひとつの夢を見て、目覚めるたびにその夢の形に作り替えられているみたいだった。
漂う虚無。
ぼんやりとした自分という存在の輪郭を保とうとする。
保てないかもしれない。
連綿と続く、波打ち際の泡のように。
あなたはふと、思う。
自分が世界を見ているのではない。
この世界が自分を見ている、と。
木々や石、霞や、ほの暗い空気の奥から、あなたは見られている。
あなたもまた、世界をじっと見つめる。
消えた二律背反
「忘却」について読む残滓
次の夜、あなたは野営地を作ることを思い立つ。
石集め、枝折り。
簡単な板を作って、その上に横たわる。
それは家と呼ぶには心もとなかったし、砦と呼ぶにはあまりに頼りなかった。
朝になればこの野営地も消えているのだ。
あなたは思う。
世界からは抜け出せないのだから。
朝になると、野営地にあなたはいた。
石は置いた場所にあり、焚き火の跡は冷たくなっている。
灰は灰のままで、枝は枝のままだった。
世界のほかの部分はすっかり書き換えられているのに、その小さな場所だけが、前の日の続きを生きていた。
あなたは、気づいた。
床板の下で脈動する、淡い光を。
蒼淵
あなたは自分の存在を、世界の奥にある何かへ刻んだのだ。
そのおかげで世界は、あなたを完全には忘れられなくなった。
それは大げさな奇跡ではなかった。
天使が降りてくるわけでもなく、聖者の復活でもない。
ただ、昨日置いた石が今日もそこにある。
それだけのことだ。
でもその「それだけ」が、この世界では決定的な意味を持っていた。
あなたはもう、流されるだけの旅人ではない。
変わり続ける世界に、小さな重しを置くことができる。
消えていくものの中に、消えない場所を作ることができる。
この世界で生きるというのは、たぶんそういうことだ。
変化から逃げることではなく、変化の中に自分の印を残すこと。
私はここにいる
「蒼淵」について読む連環の中で
あなたは自分の野営地を離れ、さらに先へ進む。
すると、別の焚き火の跡を見つける。
何かがそこにいた。
同じように夜を越え、同じように朝を迎え、同じように世界から忘れられないでいた何かが。
ひとつの火と、もうひとつの火が道でつながる。
道は少しずつ伸びていく。
やがて小さな野営地は村になり、村は町になり、町は都市になる。
人が集まり、名前を呼び合い、物を交換し、食事を作り、天気の話をし、失ったものの話をする。
そういうありふれたことが、少しずつこの世界を安定させていく。
道は、ただ歩くためのものではない。
それは誰かが誰かを忘れないための、世界があなたを覚えているための証だった。
もし世界がまた姿を変えたとしても、その線があれば、誰かは誰かのところへ戻ることができる。
町は安全な場所であると同時に、記憶の入れ物でもあった。
そこでは、一人ひとりの小さな記憶が重なり合って、ひとつの大きな現実を作っている。
すべての記憶は、共有される
「町」について読む忘却の訪れ
それはただ静かに待ち、時が満ちると戻ってくる。
ある日、嵐が来る。
それは風の嵐ではなかった。
雨の嵐でもなかった。
ものごとの輪郭を少しずつ薄くし、名前をはがし、存在そのものをほどいていく嵐だった。
壁は壁であることをやめ、道は道であることをやめ、家は家であることをやめる。
そして嵐が去ったあと、あなたの町はなくなっていた。
仲間たちも消えていた。
彼らを世界につなぎとめていた錨は、忘却の激しさに耐えきれなかったのだ。
再びの孤独。
あなたは立ち尽くす。
かつて街があった場所に。
ひとりの旅人がやってきた。
彼が纏うローブには、一定のリズムで光が流れていた。
まるで古いジャズのベースラインみたいに、規則正しく、遠くから響いてくるような光だった。
彼が何もない空間へ手を伸ばすと、現在が薄い紙のようにめくれた。
その下から、過去が現れる。
あなたは見た。
かつての町を。
人々が歩き、火が灯り、誰かが誰かの名を呼んでいた頃の町を。
旅人は言う。
忘却されたものは、完全には失われていない。
ある条件の下で世界は記録されているのだ、と。
過去は失われたわけではない。
それは蒼淵の奥深く、時間の層の中に眠っている。
ただ、こちら側からは見えなくなっているだけなのだ。
あなたは思う。
もしそこへ手を伸ばせるなら。
もし昨日を、もう一度今日へ連れてこられるなら。
しかし旅人は首を振る。
それは簡単なことではない、と彼は言う。
代償と引き換えの、世界の「続き」
「秘術魔法」について読む結晶
それは欠片ではなかった。
完全な形をしていて、かんぺきな結晶だった。
紫色の熱を内側に抱え、眠れない心臓のように小さく震えていた。
旅人は儀式を始めた。
光が広がる。
空気が震える。
光の雫が空一面に広がり、大地へ降り注いだ。
忘却された過去が姿を見せた。
そして、失われた町が戻ってくる。
石が戻り、梁が戻り、道が戻る。
壊れた角も、焦げた壁も、踏み減った階段も、すべてそのまま戻ってくる。
過去は、美しい部分だけを選んで帰ってくるわけではない。
それは傷も、失敗も、汚れも含めて、そのまま現在へ戻ってくる。
そして、仲間たちが息をする。
それは再建というより、続きだった。
一度閉じた本のページを、もう一度開いたようなものだ。
けれど奇跡には、いつも請求書がついてくる。
儀式が終わると、結晶の光は消えていた。
残ったのは、疲れ果てた結晶だけだった。
旅人の顔にも、深い疲れが浮かんでいた。
まるで、結晶の疲れと呼応するかのように。
彼は世界を戻したが、そのために何かを失ったのだ。
あなたは理解する。
この力は美しい。
そして危うい。
失われたものを取り戻すことができる力は、同時に、忘却から逃れた生命の摩耗を要求する。
ただ、あなたにはある種の希望が見えていた。
過去は、自らの手で取り戻すことができる
「秘術結晶」について読む蒼淵に刻む
あなたはこの世界の仕組みを知った。
世界が覚えていられるのは、蒼淵に刻まれたものだけだ。
けれど、記憶を取り戻す力には代償がある。
旅人の生命は消耗し、結晶はもう光を放たない。
あなたは選ばなければならないのだ。
世界の裂け目へ入り、忘却から蒼淵を手に入れ、力の使い方を学ぶのか。
それとも町に残り、道を直し、錨を深く打ち込み、次に来る忘却に備えるのか。
忘却はまた戻ってくる。
それは季節のように、あるいは死のように、いつか必ずやってくる。
大事なのは、世界から忘れられないことではない。
どのように世界に覚えられるかだ。
あなたが置く石。
あなたが引く道。
あなたが選ぶ危険。
そのひとつひとつが、世界に刻む小さな署名になる。
あなたは建設者になって、混沌の中に残る場所を作ることができる。
あるいは探究者になって、忘却嵐の奥へ進み、蒼淵の力を手にすることもできる。
あらゆる道には意味がある。
そして、あらゆる道を選んでも、失うものがある。
世界はそれを知らない。
ただ佇んでいる。
静かに。
ただそこにある空気のように。
あなたは、世界に蒼淵に何を刻むのか。
この世界で生き続けろ